シアトル
2020 年 9 月某日,シアトルにある Amazon 本社では静かな期待と興奮が満ちていた.東京オリンピックが終わり,ピークを迎えた日本の株価は徐々に下がりつつつある中,何か重大な発表があるのではないかとの噂で持ちきりだった.
壇上には Amazon の CEO, ジェフ・ベゾスの姿があった.彼は過去 1 年間の業績を報告した後,新製品について言及した.
「数年に一度,すべてを変えてしまう製品が登場します.それを成し遂げることができれば幸運ですが,我々は何度かの機会に恵まれました」
「2007 年,Kindle を発表,紙の書籍から電子書籍へと移行」
「2011 年,Cloud Player を発表,これは iPhone ほどのインパクトはなかったかも知れない」
会場に笑いが起きる.
「2014 年,Alexa を発表.タッチ画面から音声へとインターフェースの移行が始まりました」
キッチンの課題
「こんにち,我々は飢餓とは無縁の生活を送っています.しかし,逆に合衆国で肥満に悩む人は国民全体の実に 4 割にも達しています」
CDC も警告している通り,肥満は生活習慣病のリスクとして認識されている.
スクリーンのスライドが切り替わっていく.
「肥満が心筋梗塞や脳卒中のリスクであることを知りながら,我々は過食を止めることができません.それどころか,1 日にどれだけのカロリーを摂取しているのかすら,把握できていません」
真面目な口調から砕けた調子に切り替わる.
「私はマッケンジーに何度か聞いたことがあります.『マック,頼むから,食材の重さを量ってくれないか?』と」
ジェフは眉毛をつり上げ,肩をすくめてみせた.会場からクスクス笑い声が漏れてくる.
「返ってきたのは,フライパンでした」
どっと会場が笑い声に包まれた.
『そんな余裕ある訳ないでしょ!そんなに量りたいなら,自分で作りなさいよ!』
ジェフ・ベゾスは声色を使っておどけてみせた.
「彼女のような優秀な女性でさえ,毎日の食材を計量することには困難を伴います.まして一般の家庭であれば尚更です」
そうなのだ.調理しながら食材を計量することはとても難しい.どの国の国民栄養調査も不確実なのは,実にこれが原因なのだ.
「調理は生活の最も基本的なことでありながら,そこにテクノロジーが関与することは,昨日まではありませんでした.そう,昨日までは.しかし,我々はこれを解決しようと努力しました」
新製品
「今日,革命的な製品を三つ紹介します」
ジェフ・ベゾスはそこで一旦言葉を切った.聴衆の視線が集まる.
「一つ目はスマートカメラ.常にあなたのそばであなたや家族を見守ります」
サードパーティ製の Web カメラが星の数ほどある中,Amazon はあえて自社製のカメラを前年に発表していた.
「二つ目はモノ…もとい,インテリジェントカッティングボード.載せられたものの重量を自動的に計量します」
これは半年前に発表されたものである.まな板に重量計と無線を内蔵している.重量計はタニタ製と噂されていた.
「三つ目は Amazon Echo. クラウド上の Alexa と接続されたスマートスピーカーです」
発表された当初,Echo は聞かれたことすらまともに答えられないと叩かれたものだった.しかし最近はスキルも充実し,それなりに使えるものになってきていた.
「スマートカメラ,インテリジェントカッティングボード,Echo. これらは独立した三つではなく,ひとつなのです」
ジェフ・ベゾスはここで会場を見渡し,厳かに宣言した.
「今日,我々はキッチンを再定義します」
スマートキッチン
「紹介します.スマートキッチンです」
ジェフ・ベゾスは説明を始めた.壇上には台に載せられた Echo が運ばれてきた.
「…スティーブ,ありがとう.さて,仮に今日は日曜日で,ホームパーティを開く予定になっているとしましょう」
「主催者はあなたとパートナー,友人二家族を招待しています.友人の子供には卵アレルギーがあります」
「パートナーは Echo に聞きます.『Alexa, 今日は何を作ったらいい?』」
すると壇上に用意された Echo が Alexa の声で答える.
『今日の予定はホームパーティですね.冷蔵庫には賞味期限が明日の牛肉,三日後の鶏胸肉,一週間後の卵があります.ローストビーフかグリルチキンはいかがでしょう』
「じゃあ Alexa, ローストビーフの調理シークエンスを起動して」
『ジェフ,実は 3 日前にアメリカ心臓病学会のガイドラインが更新されています.差分をダウンロードしますか?』
「Alexa, ダウンロードして」
『ジェフ,最新のガイドラインによると,虚血性心疾患の一次予防において,牛肉は心筋梗塞発症率のハザード比を 11 % 上昇させるとのメタアナリシスが引用されました.それに伴い,虚血性心疾患一次予防における牛肉の摂取に関するステートメントの推奨度が Grade B から Grade A に上がっています』
ジェフ・ベゾスは両手を広げてやれやれと首を横に振っている.会場からはクスクスと笑い声が聞こえる.
『また,医療保険の支払い記録によると,今日招待する予定の友人の一人は,狭心症の治療を受けている可能性が高いと思われます』
「…Alexa, もう少し易しい言葉で言い直してくれないかな?」
『ジェフ,グリルチキンをお勧めします』
「分かった.じゃあ Alexa, グリルチキンの調理シークエンスを起動して」
会場はどよめきに包まれた.Alexa は最新の医学情報に基づいて最初の判断を変更した.そこに聴衆は驚いたのである.
この短いやり取りの間に,一体どれだけのデータベースがクラウド上で接続されているのか.これだけの情報をほぼリアルタイムで処理する Amazon の計算資源の豊富さは,世界有数のものだった.
壇上にはキッチンを模した台が運ばれてきていた.台の一角にはカメラが据え付けられている.
「…牛肉は SpotMini にあげるしかなさそうだな」
気の利いたジョークに会場が沸き返る.
「実は私も休日には料理をします」
ジェフ・ベゾスが言うと会場には和やかな雰囲気が流れた.ジェフ・ベゾスは小型冷蔵庫から鶏胸肉を取り出し,インテリジェントカッティングボードの上に置いた.見た目が黒である以外は,ただのまな板である.先刻ベゾスが言い間違えたように,その形状と色から,インテリジェントカッティングボードはモノリスと呼ばれていた.
『ジェフ,それは鶏胸肉ですね?』
「そうだよ」
『鶏胸肉の重さは 1,200 g, たんぱく質は一人あたり 39 g, 脂質 23 g, 炭水化物 0 g です』
Alexa が食品成分データベースに接続しているのが分かる.ジェフが鶏肉を切り分けてジップロックに詰め,おろしたにんにくを流し込む.
『ジェフ,それはにんにくですか?』
「そうだよ」
ジェフがジップロックを密封してモノリスの上に置くと,Alexa が言った.
『にんにくの重量は 55 g です.たんぱく質は一人あたり 0.42 g, 脂質 0.05 g, 炭水化物 3.33 g です』
ジェフはジップロックを冷蔵庫にしまって言った.
「Alexa, オーブンは後どれくらいで予熱が終わるかな?」
『あと 1 分です』
「OK, Alexa, サラダのレシピは?」
日本の凋落
会場を出た聴衆は一様に興奮していた.展示ブースでは実機のデモが体験出来るようになっており,日本から今日の発表を見に来ていたメーカーのエンジニアや幹部は,一様にショックを隠しきれない様子だった.何人かが興奮して電話口でまくしたてていた.
その様子を横目で見ながら,渡辺正樹はジェフ・ベゾスの発表を冷静に受け止めていた.今回の発表は,Amazon が取得している一連の特許を見れば予想できていた.残念ながら,もう日本がこの分野で世界のトップに立つことは難しいだろう.
日本のメーカーは相変わらずハード面での技術力には強みがあるものの,旧態依然たる経営方針が邪魔をして,システム全体を組み上げる能力に欠けている.ソフトウェアを軽視してきたツケがここでも回ってきた格好だった.
すでに Echo は世界中の家庭に行き渡り,人々はスマートフォンではなく,Alexa に話しかけることに慣れている.今日の発表を受けて,Amazon のサイトにはスマートカメラとモノリスの注文が殺到するだろう.そして Amazon の株価は間違いなく上がる.Amazon 株を買い増ししておいて良かったと思った.
食事管理の現在と未来というブログが予想していたように,ジェフ・ベゾスは全世界のキッチンという最大の市場を一日にして手に入れてしまった.彼が世界一の金持ちになったのは 2018 年だったが,彼を追い越すのはもう誰にも無理だなと渡辺正樹は思ったのだった.
そうだ,直子のためにモノリスを買って帰ろう.日本の技適はまだ通っていないが,近いうちに承認されることは間違いない.経団連あたりが抵抗するかも知れないが,市場で受け入れられているものは必ず認められる.渡辺正樹は販売ブースに向かった.
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